千代田区へ! ~日比谷公園~

ラミッツ
ラミッツ
2021年12月2日

華やかな現在と、事件が多かった過去

東京駅の隣の駅の有楽町駅に近く、皇居の向かいに日比谷公園があります。日比谷公園の周辺は高層ビルが立ち並ぶ丸ノ内や虎ノ門、新橋や霞が関など、働く街の代表的な街に囲まれています。
しかし、安土桃山時代より昔は、皇居(江戸城)より南側は海であり、日比谷公園は昔、海でした。江戸時代に入ると、江戸の都市開発によって日比谷を埋め立てて土地を増やしていきました。もちろん、現在のようなコンクリートを使用しておらず、神田にあった山を崩して、その崩した土で埋め立てたものになります。その埋め立て地に屋敷を建てたといわれています。

広い敷地の周りにはたくさんの花壇、右奥の高層ビルは丸ノ内界隈

明治時代になると、日比谷にあった屋敷群は更地となり、日比谷ヶ原と呼ばれました。屋敷があった土地は明治政府のものであったので、日比谷ヶ原も例外ではなく政府の土地でした。
1871年(明治4年)、日比谷ヶ原は陸軍の練習所として使われるようになり、陸軍操練所なりました。

1885年(明治18年)、日比谷練兵場と名前が変わりましたが、3年後に現在の明治神宮外苑に移しました。

1902年(明治35年)、日比谷ヶ原に公園を造り、日比谷公園となりました。
元々海で埋め立て地で、地盤が悪かったため、建物の建設に不向きでした。公園として活用することになり、更地から公園計画したのは日本初となりました。上野公園や芝公園は、神社やお寺の敷地であったから、日比谷公園と成り立ちが異なっていました。

花壇を多用した、日本初の洋風近代式公園

開園当時は花壇と広場の他に、洋風喫茶店松本楼、和風喫茶店三橋亭(パークセンター)、結婚式場高柳亭(日比谷パレス)、洋風レストラン麒麟亭(レストランなんぶ)、植木屋が出店しました。

1923年(大正12年)、公園内に野外大音楽堂が完成。
大正時代になると、日露戦争や大正デモクラシーが起きて、政府や国民の政治運動に使われることが多く、暴動になることがありました。

政府側

  • 日露戦争の祝賀会
  • 国葬

国民側

  • 東京市電賃上げ反対運動
  • 普通選挙運動
  • シーメンス事件に対する第二次山本内閣弾劾国民大会
  • 日比谷焼き討ち事件(ポーツマス条約の反対運動がきっかけ)

皇居や霞ヶ関に近い立地に広場があるため、日比谷公園は政治運動がしやすい場所であったのは大正時代から始まったのでした。
1923年(大正12年)関東大震災が発生し、大音楽堂以外被害を受けました。運動場に仮設住宅を建てました。また、公園の一角では被災者遺体の仮埋葬が行われました。

1942年(昭和17年)、太平洋戦争の最中に日比谷公園は軍用地となり、松本楼を海軍省将校宿舎として使われました。
戦中で食糧難になると、花壇でジャガイモを栽培する事態になったのでした。

戦後になると、松本楼は米軍の宿舎として利用されました。
1951年(昭和26年)、米軍宿舎の利用が終わり、再整備が始まりました。

1971年(昭和46年)、沖縄返還運動で松本楼が放火によって焼失しましたが、その後再建され、以降は事件は発生することはありませんでした。

関東大震災の後から残っている日比谷公会堂
日比谷公園の時計からの景色

自分が言った当時はイベントが催されていて、あまり撮影できる状況ではなかったので撮れた写真が少なくなってしまいました。
(2020年12月 撮影)
過去に数々の事件が起きた面影はなく、イベントが行われて賑わっている一角があり、運動している人がいたり、ベンチでやんすでいる人や寝ている人がいたり、平和な時間が流れていました。
これから秋になりますが、イチョウが見頃になると思いますので、是非行って見てください!!

公園内のイチョウの木々
ラミッツ
東京駅 新橋駅 周辺

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