横須賀市へ! ~三笠公園~

ラミッツ
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2025年9月13日

世界三大記念艦「みかさ」が見れる公園

横須賀市(三浦半島)を相模湾に面した西側から横断し、今回は東京湾側の東側にある三笠公園へ行ってきました。

公園の名前の由来、シンボルとなっているのは、かつて日露戦争で連合艦隊戦艦を務めた「三笠」です。現在は博物館として展示されています。日本では船舶が展示、博物館になったものは珍しくないのですが、戦艦が展示されている所は恐らく三笠だけだと思います。
似た言葉で軍艦がありますが、軍艦は軍用艦船の総称で戦艦は軍艦の一種となります。具体的には、軍艦の中で戦闘に利用し、敵を攻撃する武器が装備している艦艇を指します。

三笠の歴史

1899年、日清戦争を終えて、次にロシアに対抗するための軍事計画として、戦艦4隻をイギリスのヴィッカーズ社に発注して造られました。この4隻を敷島型戦艦と呼ばれ、当時世界最大の戦艦で、敷島、朝日、初瀬、三笠の名称がつけられました。三笠は四番艦で、奈良県奈良市にある春日大社の東側にある春日山の通称、三笠山から命名されました。
1902年、イギリスのプリマスから、日本の横須賀に到着しました。横須賀で整備した後、舞鶴へ出航し、舞鶴港を本籍港としました。
1904年、日露戦争で旗艦を務め、司令長官である東郷平八郎大佐が乗りました。
三笠公園には、三笠の前に東郷平八郎司令長官の銅像があります。

1905年、日露戦争の日本海海戦で戦い、勝利しました。しかし、日本海海戦が終わって半年後に、佐世保港内で後部弾薬庫で爆発事故が発生し、三笠は沈没しました。当時は東郷平八郎が乗船しておらず無事でした。その後3年間修理をしたのですが、1912年に前部の火薬庫で火災事故に遭いました。

大正時代に入ると、シベリア出兵で北方警備にまわり、1921年に海防艦に類別変更されました。その後、ワシントン海軍軍縮条約によって、三笠は廃艦することが決まりました。

廃艦からの保存の流れ

廃艦が決定して解体する予定でしたが、三笠の解体に反対運動が高まり、復帰できないように保存することになりました。
芝浦港へ廻航するため横須賀港で寄港中に関東大震災が発生し、艦底が損傷しました。浸水して移動が困難なため、横須賀で三笠を保管することになりました。偶然にも初めて日本に来た所と同じ横須賀で、海に浮かぶことを終えることになりました。

岩場を掘削し、三笠を現在の位置に引き入りました。日露戦争で活躍した三笠は日本の象徴であり、艦首の菊花紋章は皇居の方角に固定をしてあります。皇居の延長線上にあるロシアにも向けられています。
戦後はこの三笠を含む横須賀港は連合軍によって接収されました。ソビエト連邦(現ロシア)から解体を求められましたが、日本側は保存したいので、アメリカ軍が間に入って交渉した結果、大砲などの上甲板構造物の撤去で留まりました。
1949年、民間企業によって委託された三笠は遊興施設に変身し、「みかさ園」を開園しました。上甲板には水族館やダンスホールが建てられ、話題となって開園当時は人気があったものの、10年で閉鎖となり、三笠は放置されました。
現在の姿になったのは、イギリス出身の貿易商のルービン氏の行動がきっかけでした。三笠建造時の乗組員と知り合いだったルービン氏が、荒れ果てた三笠の姿にショックを受け、その胸中をジャパンタイムズに投書しました。
この記事が多くの人に知れ渡り、国内外問わず三笠を復元要望が高まりました。政財界、旧海軍を中心に復元工事が始まり、1961年に現在の姿である記念艦になりました。
日本の三笠、アメリカのコンスティテューション、イギリスのヴィクトリーが世界三大記念艦と呼ばれています。
この3隻の共通点は、自国を護るための海戦の勝利に大きく貢献した艦艇です。日本海海戦、米英戦争、トラファルガー沖海戦と国や時代が違っても、現在まで勇敢な姿が残っている、世界の中でも三笠の存在はかなり貴重なものです。

公園の風景
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逗子市 周辺

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